池田信『1960年代の東京』路面電車が走る水の都の記憶

青山電話局。1922年竣工、逓信省営繕課岩元禄の設計。北青山2丁目。計画ではドリス式列柱の上に女体像が載るはずだったという=東京都港区赤坂青山北町4丁目1(後の北青山2丁目)で 1962年(昭和37年)6月17日、池田信(いけだあきら)さん撮影 毎日新聞社刊「1960年代の東京」71ページ掲載

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1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶

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池田 信
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コメント

当時の港区は概ね赤坂局とこの青山局の2つの局がカバーしていたと思われますが、何故か自分は変わった趣味があって白地図に当時居住していた家を中心に良く使われていた赤坂局の5で始まる3桁の市内局番と、青山局で使われていた4で始まる市内局番を塗り分けして遊んでいました。どこでその局番が変わるのかが気になってじいっと電柱の通信線を見つめて歩き回るちょっと変わった子供でした。
今でも電話のセールスなどが着信すると「何だ、わざわざ札幌からか」とか「池袋だなこりゃ」なんて勝手に見当をつけて電話に出る癖が直りません。ある意味電話オタクだったのかも。本当はNTTにお勤めすれば良かった!?

投稿:東京タワーの同級生(1958年生まれ)
2008年9月29日 (月) 09:47

当時は、電話をある家は、少なくて、電話が、掛かってきたら、取り次いでいました。今は亡き、お袋と、一緒に、電話料金を、納めに行ったことを、思い出します。

投稿:大澤基之
2014年10月13日 (月) 23:38

昭和20、21年頃は地獄の生活でした。食糧不足、空腹、貧困、結核、疥癬、虱、インフレ、台風被害、強盗・泥棒、殺人、売春婦、電力不足、鉄道交通麻痺、失業者、ストライキ・・・、これらが日用語でした。我が家でも東京空襲で焼け出され、田舎へ身一つで疎開したが、付近の住人からは「疎開・ソカイ」と蔑視され、食べ物もなかなか手に入らず、その結果、栄養不足などで、兄・妹の二人を結核で亡くしました。あの頃の悲惨な生活を思い出す写真ですが二度と経験したくありませんね。

投稿:うみセツヤ
2014年10月21日 (火) 14:22

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