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クイズ昭和の記憶

昭和→平成で変わった? 第1回 日本有数の繁華街

 大きな交差点を車や人が行き交っています。正面の道路上を横切っているのは高速道路で、その奥の円形の建物が目に付きます。ここは、当時も今も日本有数の繁華街です。撮影は昭和37(1962)年1月。さて、ここはどうなっているでしょうか。

 答えはBの「かなり変化」、です。数寄屋橋交差点から東京都千代田区有楽町方向を見ています。円形の建物は「日劇ダンシングチーム」によるレビューで知られた日本劇場(日劇)で、その手前は朝日新聞社。今、これらの跡地には複合商業施設「有楽町マリオン」が建っています。

[この場所の当時の地図をみる]

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コメント

snail
昭和31年春、中学卒業式を終えて神保町から日比谷まで皇居のお堀に沿って歩いたあのころ、もう半世紀以上も前のこと。 数寄屋橋の欄干はコンクリート造りの殺風景な世相を映し、くすんだ朝日新聞社屋と愛照らして、セピア色の青春を想い起こさせて
くれます。 

投稿:hiro
2009年2月20日 (金) 12:36

ラジオドラマ、菊田一夫の「君の名は」で有名だった数寄屋橋には、川が流れていた。都電でよく銀座に遊びにきたのが、昭和28年くらい。37年には駆け出しの記者で丸の内警察、1方面の担当だった。ロカビリーの日劇。上階にはストリップ劇場があった。終戦後間もなくは、高橋三吉大将の息子がサンドイッチマン第1号で騒がれた。このあたりを徘徊してたはず。有楽町は流行歌に引き継がれた。有楽町であいましょうよ!西武は銀座進出が夢だった。「銀座店」と呼びたかったが、銀座商店街が猛反対をした。「銀座ではない」というのだ。朝日跡地に西武。読売跡地にダイエーのプランタン、阪急は両サイドに店舗進出。この頃から物販の売り上げを非物販が抜く現象が起こった。そして銀座が甦生した。流れが大きく変わって松坂屋、松屋、三越銀座店、西武、阪急と拡大した。最近の銀座は世界のブティックの店舗ばかりが目立つ。しかし変わらぬものは「ガード下」の大衆酒場である。いまだにあれを見るとホッとする。庶民の力って大きい。東宝の再開発が進んだ。帝国ホテル、ペニンシュラホテル、そしてそれは丸の内にリンクする道筋である。JRのガードが再開発を切ってしまっている。しかしそこに庶民のたまり場がある。
銀座をこれから変えるのは大変だ。ブティックが外資だとすれば
いかに変貌させるのか。

投稿:淀野 隆
2009年2月20日 (金) 16:23

50年でそんなに変わるんですね。
そういえば、学生時代幕見を楽しんだ歌舞伎座も立て替えられるそうだし、もうちょっと先の築地市場も移転してしまうかもしれないし、これからもどんどん変わるんでしょうね。
街全体で食・娯楽・ショッピングを網羅している有楽町~築地界隈のまま変わっていくのか、それとも新しいテイストに変化していくのか、次の50年を見てみたい気もします。

投稿:coentro
2009年2月21日 (土) 08:14

放浪癖のある小学生の私は当時、馬喰町から都電に乗り日本橋や銀座で降り、デパートのエスカレーターで遊んだり、繁華街をぶらぶら歩いたりしていました。写真を見て、半世紀前に引き戻された想いがします。帰路はてくてく歩いて「じぶんち」まで戻りました。思い出の街が変わってしまう寂しさと、まだ貧しかった日本が発展し豊かになったのを喜ぶ気持ちと半々で複雑な思いです。
「じぶんち」とは自分の家、「きみんち」とは君の家という意味ですが、今では使われていない表現でしょうね?

投稿:川名広治
2009年2月23日 (月) 01:09

昭和の写真を見ると心が和みます。
最近では、昭和の家電、雑誌に興味があり
ついつい古本屋、骨董市に出かけていって
自分の手で触れ肌で感じて昭和の品物を
見て楽しんでいます。
最近、思い切って骨董市で見つけた真空管ラジオを買いました。
音が出るまでに時間あり
この間がいいのかなと思っています。
買ったラジオは、マツダ製:東京芝浦電気「514A」のものです。
真空管が切れると困るので、週1回のペース
でラジオを聞いています。
音はそれなりにクリアです。
当時の時代を思い浮かべて楽しんでいます。
今は、自分の部屋を昭和の空間にしたいと思っています。

投稿:ケンケン
2009年2月24日 (火) 13:43

1958年(昭和33年)生まれの僕は、小学校高学年になると野球の試合や練習の無い日は同級生と六本木の誠志堂書店の前に集合し自転車を連ねて銀座のソニービルや天賞堂、カメラ店やイエナ洋書店に足繁く通いました。もちろん当時はただでさえ高級品だったソニーの製品やドイツのメルクリンの鉄道模型やライカのカメラ、素晴らしい装丁の洋書をただひたすら見るだけでしたが、店員さんやスタッフはそんな僕らにも嫌な顔一つしないで尋ねれば丁寧に説明をしてくれました。小遣いなど無くても本当に楽しかったんですよ。
そんな体験がいつの間にか大人になった僕らに当時欲しかった物を一つ一つ手に入れるために頑張って働くことをを自然と教えてくれました。
でも昨今は薄給に加え簡単にクビを切られる仕事にしか若い人たちでさえありつけません。
そんな社会に内需など期待できるわけが無く、輸出が落ち込んで今度は都合よく人を使い捨てにしてきた企業の我が身が危なくなって来た。こんな理屈も分からない企業や政府も永くは続かないことは自明の理です。

投稿:麻布の元野球少年
2009年2月25日 (水) 14:21

 昭和22年有楽町駅で国電を下りると、ログハウス風の喫茶店から輸入コーヒーの香りが漏れる。
 朝日新聞社のレンガ造りの本社横を通り抜け、数寄屋橋に出る。 黒光りした御影石風コンクリートの欄干にもたれかかりながら、白衣の復員傷病兵がアコーディオンを抱えて物乞い。銀座通りを右折し、松坂屋の先に裸電球をともしたレコード店からはスイングジャズが流れてくる。昼下がりの銀座通り、4丁目から松坂屋まではトタン板に覆われたとうもろこし畑が広がっていた。
 服部時計店に設けられたPXと好対照を成す。
 あれからもう60余年、今、銀座は通り過ぎる人々に何を問いかけているのでしょうか?
 兄に連れられて歩いた銀ブラ?の想い出が今も鮮やかに当時の風景を想い起こさせてくれます。

投稿:hiro
2009年4月28日 (火) 18:50

子供の頃におしゃれをして、松坂屋前の不二家でお子様ランチ、おもちゃの太鼓を買ってもらいうれしくて本通りをたたいて歩いたっけ(GIが面白がってカメラに収めていたなあ・・・写真を後で送ってくれました)写真には外れているけど、今はGAP
のビルは東芝のイルミネーションが面白く、テレビの(ヘッケル・ジャッケルというカラスのアニメーション)コマーシャルが瞼の裏に焼きついています
連れて歩いてくれた両親も母はもう鬼籍、父は元気でいるけれど、親子での銀ブラもその後あまりなかったかな・・・それから公私共に激変の銀座ですね

投稿:どうにか動く腕時計
2011年1月21日 (金) 16:51

懐かしい画像ですが、私が居た頃には高速道路は無く、数寄屋橋の下を流れる川岸には粕取り焼酎と焼き鳥の出店が並んでいました。服部途計店がPX,松坂屋の地下が進駐軍のダンスホール、松屋の地下にこれも進駐軍専用のレストラン、皇居の方を向くと第一生命ビルが McArthur元帥の司令部、そんな頃を覚えている人はもう余り生きてないでしょうね。有楽町駅とパンパンガールズ、闇屋の列、貧しくても面白い街で、それなりの日本の味がありましたが、現在の有楽町は世界何処にでもある都会になってしまいましたね。残念な事です。

投稿:進駐軍属生き残り
2011年1月22日 (土) 09:50

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