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昭和写真館

終戦直後の「食」 配給だけでは生きられなかった

 戦争は終わったものの、「ひもじい」という言葉が世の中を覆いつくしていた。配給の食料だけでは足りず、栄養失調死する人も少なくなかった。大蔵省は1946年、5人家族をモデルに「月500円の標準家計簿」を発表したが、当時の毎日新聞は、「標準家計簿で生活すると、実際に摂取できたカロリーは1109カロリー。成人男子の必要カロリーの半分以下」との試算を紹介している。

 人々は焼け残った着物や家財を元手に、買い出しとヤミ市に頼る「たけのこ生活」を強いられた。政府の統制を逃れて物資が売買されたヤミ市は値が高く、農家から直接食料を手に入れるための農村行き電車は「買い出し列車」と呼ばれ、混雑を極めた。しかし、買い出しは庶民であっても経済統制違反。当局に見つかれば没収されることもしばしばだった。

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コメント

昔を思い出す写真でした。
今の生活から考えると想像もできない状況ですが、
こういった中でチャレンジ精神が生まれてきたのでしょう。
今の若者は、そういった面からも可愛そうな面があると思われます。

投稿:秋月 康敏
2008年8月30日 (土) 07:47

極貧の中にも明るい笑顔が印象的でした。よくぞこんな状態から立ち上がった。当時の人々に敬意を表したい気分です。経済が破滅するとこんなハメに陥ります。安部、福田両首相が自ら出馬した首班選挙で選ばれたにもかかわらず一年もしないうちに辞任してしまう混迷の政界。これが単に両首相のひ弱さの露呈ならヤレヤレ困ったものだ、で済まされますが、この負のエネルギーが日本経済の破滅の導火線になることが懸念されます。ついに三年前、ちょっとした米不足であれだけ混乱したのですから、経済が破滅状況を呈したならまたここにある写真のような行列が再現されないとも限りません。ここは日本国民の多数で、こうならないよう気持ちを引き締めなくっちゃ。

投稿:吉見雅和
2008年9月 4日 (木) 17:35

貴重な写真有難うございます。これらの写真を見ているとなつなしさ、悲しさなどが複雑にからみあって思い出されます。これらの記録映像を見ながら毎月第二土曜日、昭和の庶民史を学習しています。第46回の昭和の庶民史を語る会の例会は、10月11日、AM12時、堺市立東文化会館で「赤紙が届く日~挙国一致・進め行軍」の記録映像を見ながら昭和史を学び、考え、語り合います。戦争の体験者の方にもご参加いただき貴重な体験を聞かせていただいています。近くで、関心のある人はご自由においでください。お待ちしています。

投稿:昭和の庶民史を語る会
2008年9月21日 (日) 14:20

私は1941年生まれで、物心ついたときは戦争のまっただ中。大阪の十三の当たりに住んでいたために家も焼かれました。妹は終戦直後に栄養失調で死にました。戦後の食べ物のない時代もよく覚えています。時々母に連れられて郊外の知人宅へ野菜や芋をもらいに行きました。おそらく母は自分の着物を交換に持っていったのでしょう。あの時代によく私を守って育ててくれたもとだと、今になって両親に感謝感謝の日々ですが、孝行をしたいときには親はなし、ということわざ通りです。写真の中の子どもを見ては、あの頃の自分を思い起こしています。

投稿:新井俊一
2008年9月24日 (水) 22:21

こんな時代にさっきまでの自分が暮らしたことをすっかり忘れていましたし、あんなに大勢の孤児がいたコトは知りませんでした。
今61歳ですが、戦争がもたらすものがどういうことか、身近に感じました。
 娘たちにコピーしたり友人に送ります。
毎日新聞は地味だけど大切なことに取り組んでいますね。来月から、購読します。

投稿:今村由紀子
2008年10月10日 (金) 16:00

毎日の食事すら食べられない。
日本はそんなどん底から這い上がった。
低い終戦直後の生活水準、
俗に言う「タケノコ生活」は大変だったでしょう。
記憶されている方も多いでしょうが、
事件や事故もたくさんあったと思います。
ですが、日本はここまで成長しました。
謝意を示したいと私は思います。
罪悪感を感じるていない今の混乱した政局。
しかし、きっと明るい未来があると私は思います。
ろくでもない人ばかりじゃないからです。

投稿:辺見伸文
2008年10月12日 (日) 20:25

父が戦後の混乱期に母(私から見た場合祖母)に
つれられて、母の着物などを農家で食べ物に
変えてもらった記憶があると話すことがありま
した。
農家が人の足元を見て買い叩く姿がとても印象
に残っていたようで、農家に対しての憎悪を
織り交ぜて話していたのがとても印象的です。

投稿:Oka Taro
2008年10月13日 (月) 01:41

今、ハワイに居住する者です。
戦後は、日本にいましたが、日系のアメリカ軍人と、結婚したので、あの頃の家だけ、PXなどで、買い物できました。
ハーシーの、チョコレート、ピーナッツバター、コカコーラ(一番初期の)スパムの、缶詰め、ハンバーガーなど、元進駐軍のみが、買える物を、実家に、持って来るたび、父や母が、大喜びで、食べていたのを、思い出します。
家の前にはアメリカの車が、並び、大変なさわぎでしたねぇ~
でも、いつの間にか、ハワイから、たまに日本に来ると、まるで、昔とは反対に日本には、何でもある様になりました。
私も、もう80代ですが、もう、日本には帰る事は無くハワイに骨を埋めると、思いますが、日本の成長には素晴らしく思います。

投稿:茂木房枝
2008年10月21日 (火) 23:39

なんでかねー。
若いときとか 幼子の 今の老人に相当する
彼等はなんで こんな美しいのかね。
いつのまに妖怪になったんやら。
げろげろばー っぺ とマナーのない
女子高生の足が好きな きもいじぃとかさ。
こんなかわいいガキだったとは
おもえん。

投稿:あたし
2008年11月19日 (水) 22:34

写真を懐かしく見る自分と悲しくなる自分が居ます。
母がお前のミルク配給券がどれだけ助かったかわからない(母の母乳が溢れるほど出たためにミルク配給券は他の食料と交換された)とよく言われました。ちなみに今は177cm76kgと無事に65歳を越える事ができました。
何も無かった時代は皆がそうであったためにそれほど暗くはなかった。それこそ今のような格差はなかった。
私も昭和の時代のニュースソースを残そうと20年位前から映像、写真、スクラップ本などを集めています。一つ一つ自分なりにDVDに残し孫子の時代まで残す事ができれば良いと思いがんばっています。又当時から毎日新聞は変えずに続読しています。

投稿:井野 記男
2009年6月 3日 (水) 11:34

浜田省吾さんの「風の勲章」と言う曲がぴったりです。

投稿:中澤
2013年3月21日 (木) 16:57

私は戦争末期に生まれ、終戦後の食料難は記憶に有りませんが母から当時の様子は度々聞いております。
その話の中に出てくる状況と写真とが全く一致しているのです。
写真に見入ってる内に「ショーウインドウのケーキを見つめる子供」の写真で突然涙が出てきました。私ももう数年早く生まれていればこの悲惨な経験をさせられたでしょう。
こんな状態から経済大国に成長した日本をほこりに思います。
現在は経済状態が悪く、近隣国から色々と圧力を掛けられていますが国民が奮起すれば経済回復は必ず出来ると思います。
「日本国民の誇りを持ってがんばろー」

投稿:高須通之
2013年3月21日 (木) 17:56

私は戦中戦後の世代です。国民小学校3年、戦後は尋常小学校卒業となります。3年に進んだ頃、米軍の飛行機(グラマン)が頻繁に来るようになり、警戒警報が出されると、家に返されたが、途中で警報になり背後に飛行機が見え、怯えて途中の堀に退避した記憶があります。家につく前に警報解除のサイレンがなった事しばしばでした。日本の飛行機が迎撃にきたことは一度たりと無かった。今にして思えば今の仙台空港(戦時は玉浦飛行場)を襲撃にきたのでした。
敗戦時の玉音放送を家族揃って正座して聞き大人は涙を流していたのが目に焼きついています。

投稿:守屋芳晴
2013年3月21日 (木) 19:06

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